親父100まで生きるってよ

書くことで 自分の心も 保ちたい

家族の思い

自宅療養を続ける母のことは、できるだけ隠して生活を送っていくことにしました。

もうこの頃にはいわゆる寛解の状態であるのに、社会復帰を目指さない母が僕は嫌いでした。怠け者だと考えるようになりました。少なくとも世間は母をそう見るだろうと。

友達も家には呼ばない。母の存在がバレてしまうから。たぶん皆知ってるんだけど、できるだけ隠すことにする。学校にも来なくていい。恥ずかしいから。

母のことはできるだけ話題に上らないようにする生活を心がけていました。

 

・・・今思えば、母は自分のことで精一杯であったことも理解できるんですけどね。でも、見た目は普通に見える母に対する他人の視線が怖かったんじゃないかと思います。精神の病気って、五体満足で見た目も普通と変わらないという事実が、周囲の者を焦らせてしまうのではないかと思います。どれくらい治っているのか、前に比べてどれだけ楽になっているのかとかも、骨折や傷なんかと違って目に見えませんし。だから母も「病気だからよ」と言うしかなかったんじゃないかと。

この目に見えないものに対して、僕ら周りの者はどうしたらいいのか?って、この頃はずっと考えていました。

いくら考えても答えは出ません。出ないのにまた考えてしまう。

これ、僕らはずっと何かを間違ってるんじゃないか?どこかに正解があって、僕らはそれを見つけられてないだけなんじゃないか?もしそれを見つけられたら、また元通りの生活が戻ってくるんじゃないか?って思ってしまうから。

 

こういう思いが当事者のみならず、周りの家族をも苦しめてしまうのが、この病気の厄介なことろだと思っています。

 

「病気だからよ」

母は2度目の退院後、自宅療養の毎日を過ごすことになりました。おかげさまで再発することもなく現在まで服薬と通院で過ごせております。

退院後の母の暮らしとしては、当時うちは兼業農家でしたので、母は畑で作った作物を収穫したり、父と一緒に作業をするといった役割を担当していました。朝家事を済ませて畑に行って作業をするといった日々でした。

今から考えると、これがすごく母にとっては良かったんじゃないかなと思います。農作業は人との関わりも少なく、ただ黙々と作業をするといったことが多いので、人間関係が苦手な母としては日々のストレスも少なかったのではないかと想像しています。

また母の退院後しばらくして、祖父が施設に入所するということにもなりました。これも母にしてみればストレスの低減になり、家でも過ごしやすかったのではないかと思います。そんな日々が数年続き、我が家に平和な時間が訪れていたと言える時期だと思います。

それもこれも、今にして思えば、という話ですが。

僕は中学生になり、いわゆる反抗期を迎えていました。

祖父が施設に入所したことについて、入所した施設は遠くて車で行かないと会えないような場所にありました。父は仕事で忙しいので、おそらく祖父の施設に行くことはもうないことはわかっていました。僕は祖父が好きだったのと、自分の家で起こったことは自分たちでどうにかしなきゃいけないと思っているところがあったので、祖父の件はようするに厄介払いをしただけだろうと、それを決めた両親に腹を立てていました。

また、そのおかげで母は落ち着いて日々過ごせているのであれば、母はまた外に出て働けるように頑張るべきだと思っていました。それができて初めて治ったと言えるだろうと。おじいさんを施設に入れた意味があったと言えるだろうとか思っていました。

父は怒ると怖いので母にしか言えませんでしたが、なぜそうしないんだと言う僕の問いに対する母の答えはいつも同じで、

「病気だからよ」

の、ひとことでした。

病気だからおじいさんを施設に入れたのか。病気だから外に働きに行かないのか。病気だから自分の生活を改善しようと動かないのか。病気だから何も考えられないのか。病気だから何もしなくていいのか。

何もかも病気のせいなのかと。

じゃあ、俺が学校で喧嘩するのも病気のせいか。だって俺はキ○ガイの子やもんな。気に入らんことがあったら人に噛みついたってしょうがないよな。

それとこれとは話が違うと今ならわかるんですが、当時はこんな、いじけた思考回路しか持ってなかったですね。数年後、商品作物を作る農業を辞めて専業主婦状態になってからの母に「どうして外に出て働こうとしないのか」とか何度も言ってみたんですけど、返ってくる言葉はいつもこの言葉で。

 

たぶん、僕と同じような経験をしたことがある人であれば想像できるかもと思いますけど、何かこう、親が病気であることで自分の将来の可能性が少なくなりそうな気がする怖さというか、そういうものと、自分にはどうすることもできない歯痒さみたいなものとが、ごっちゃになった気持ちというか。そして、それを言葉にすることもできないんですよね。話すことで相手(親)を困らせてしまうような気がするし、反応も怖いし。

それに自分はまだ子供だから「これが正しい!」って言えるものもなかったですしね。だから結局表面上は親の言う通りに過ごしてしまう、でもどこか不満を抱えている、でも病気の話は何か言いにくい、という状態で日々を過ごしていくところがあるんじゃないかなあ、とは思います。実際僕もこの病気について、元気だった頃の父と正面から話したことはありませんし。

ただひとつだけ「病気だからよ」というのは、おそらく他人からは理解されないだろうな、という気持ちだけは、この頃からずっと持つようになりました。

母の見舞いと外食

母は再入院しましたが、1ヶ月くらいで病院が合わない?とか、理由はよくわかりませんが、親戚の勧めで、家から車で2時間くらい離れた病院に入院することになりました。以来、母は現在に至るまで、その病院でずっと通院でお世話になっています。

ある日、父から「お母さんの病院に行ってみるか?」と誘いがあったので、付いていくことにしました。父は母の病気に関することは兄ではなくなぜ僕を誘うのか。この頃はまだわかりませんでしたが、まあ精神病院自体、入ったこともなかったし、どんなところかひとつ見ておこうかと思っていました。

うちの家はもともと貧乏だったらしく質素に暮らしていたので、家族で旅行とかもありませんでしたし、外食に行ったことすらありませんでした。だから僕は今日、初めて外で食事をすることができるわけです。それだけで何かワクワクしていました。

仕事一筋の父の愛車は軽四トラックで、乗り心地の悪い助手席で揺られて約2時間。片側2車線の道路と信号に並ぶ車の数を見て(大きい街やなあ)とか思ったのを覚えています。

病院は当時けっこう古い建物でした。入口から入ると外来患者さんが目に入ってくるのですが、皆おとなしく座っている。静かだ。そして待合の隅にでっかい灰皿。その周りにいっぱい人が座って、皆黙って煙草を吸っていたのを覚えています。

受付に挨拶をして母の病室へ。階段が薄暗くて怖かった記憶があります。母は机で何か作業をしていました。「早く治して帰ってきて」とか母に言ったのを覚えています。「ゆっくり休んで」ではないあたりが、やっぱり子供ですよね。

同じ部屋に入院している人が何か話しかけてきましたが内容は覚えていません。ただ、なんかすごくフレンドリーやったな、みたいな記憶が残っています。

 

帰りにラーメンを食べました。「うまいか?」「うん!」すごく美味しかった記憶があります。

健康な父と外食をしたのは、これが最初で最後でした。

 

劣等感の始まり

再入院となった母は、家から最も近い病院に入院することとなりました。その病院は当時建物が古く、窓に格子があって「中には変な人たちが入院している」などと言われているところでした。

でもたぶんこの頃の精神科って時代的にどこも同じようなイメージを持たれてたんじゃないかなあ、とも思うんですが、まだ小学生だった僕は(あそこに行くってことは、じゃあ、うちのお母さんも変な人なのか)と思わざるをえませんでした。たしかに母の状態は僕の目から見ても変でしたから、否定しようがない現実を叩きつけられたような気がしていました。

また、苦手な家事を残った皆で何とかやりくりする日々にも疲れていきますし。そういう毎日を過ごすうちに(そうか、じゃあ俺は変な人の子供なんやな)と思うようになりました。そして(たぶん他人は俺をキ〇ガイの子とか思ってるんやろな)とも思うようになっていきました。

今にして思えばただの被害妄想みたいなもんなんですけど、やっぱりこういうのって一度は通る道なのかな、とも思います。特に病人が親の場合。今でもふとした拍子にそう思うことがありますし。いわゆる「普通から外れた」みたいな劣等感のようなものからこうなってしまうんじゃないかと思うんですけど。

だからできるだけ病人のことは話題にしたくない。意識的に隠してるわけじゃないんだけど、自然にそうなってしまっている。そんな状況も経験したのでよくわかります。

でもたぶん、多くの人はそんなことには興味がないのが正直なところで。その何も考えてないところにフッとそんな話題が来た時には、当たり障りのないことを言ってその場をしのいでるだけなんじゃないかなーと思います。

 

ある日の下校前、担任の先生が突然クラスの皆に向けて「gonta君のお母さんは今、難しい頭の病気で入院しているそうです。だから皆、gonta君を励ましてあげましょう」みたいなことを言いました。

たぶん何かで父から聞いたんだと思いますけど、もちろんこの先生に悪気もなかったんでしょうけど、僕は(皆に知られてしまった)と思って、机に突っ伏して泣いてしまいました。そして(こいつ何皆にバラしてんの?こういうことって先生だけ知ってて隠しておくことじゃないの?!)って、すごく腹が立ったことを覚えています。

 

でも、この件のおかげで開き直ることもできました。(どうせ皆、遠慮して何も言ってこない。だったら俺から言ってやるわ)って。

「俺のお母さん、これこれこうでたぶんキ〇ガイなんやけど、将来俺もそうなるかな?」って聞いて「なる可能性は高いかも」って答えたのが2人いたんですが、その2人は今でもずっと信頼のおける友人でいてくれています。

 

再発と救急車

年末に退院して自宅療養となった母は、意外に?落ち着いた様子で半年くらい自宅で普通に過ごしていました。母はその間にパートに行き始めていました。

もう元通りだと思って過ごしていたある日の夜中、父に起こされました。1階に行くと母は泣いていて、何かブツブツ言いながら動けなくなっていました。「殺せ、殺せ」みたいなことを繰り返していました。

この時のことは僕が大人になって母から聞きました。パートを始めたものの人間関係がうまくいかなくて、そのうちに「おまえの子供を殺せ」という声が、昼も夜も母には聞こえていたということです。これが幻聴というものなんでしょう。

でも幻聴ってどうして殺せとか、死ねとかって物騒な言葉ばかりなんだろうかと。もっとこう、例えば「新しい服、似合ってるよ!」みたいな幻聴ならもっと前向きになれるかも・・・それはそれでうっとおしいか。

 

父と、夜中に病院で診てもらうには?→救急車を呼ぶ?という話になりました。でも父は電話が苦手なので、代わりに電話してくれ、ということで僕が電話しました。

電話に出た人に一生懸命、母の状態を伝えましたが、返ってきた言葉は「救急車は命の危険がある人を運ぶものだから、今のお母さんの状態では救急車は必要ないでしょう。お父さんが一緒にいるのなら、朝まで様子を見て、病院に連れて行ってもらうことがいちばんいい方法だ」というものでした。

たしかに、どこか痛いとか苦しがっているわけでもなく、動けないだけ。以前のように自分たちで病院に行けばいいと思って「わかりました」と電話を切りました。

精神科の病気では救急車は来てくれない。というより、救急車の必要がないのだと。この病気は自分たちで何とかしなくちゃいけないんだという考えは、この後から芽生えてきたのではないかと思っています。

 

母は翌朝、父に連れられ再度入院することとなりました。

父は最初入院した病院には母を連れて行かず、家から最も近い精神科に入院させました。

 

退院してほしい理由

母の入院から半月ほど経過した時、父から、母を年末までに退院させてくるという話を聞きました。

最初は3ヶ月かかると聞いていたので「もうお母さん治ったの?」と聞くと、父の返事は「年末だし、家事がたいへんだから」というものでした。(え?それ大丈夫?)とか思いましたが、瞬時に飲み込んだのを覚えています。兄も何も言いませんでした。

もともと家事能力がまったくない父が僕と兄を使って家事をするものの、所詮小学生の助手、10日も続きませんでした。

見かねた親戚が家事を手伝いに来てくれたり晩御飯を持ってきてくれたりもしましたが、それも毎日ではないし、父は人の手を借りることは恥だと思ってる様子もあって断ってたり。

(お母さんに帰ってきてもらいたい)と思って、僕は飲み込んだんです。でもそれは病気が治った母を待っているのではなく、家事をしてくれる母を待っているんですよね。治ったわけでもないのに3ヶ月を1ヶ月に短縮するのが正しくないのは小学生でもわかる。だから飲み込んで父のせいにしたんです。

それはたぶん、自分が楽になりたいから。

余裕がないってこういうことだと、今ならわかります。

 

もしこの時、父に退院反対だと言ってたら、もし入院を続けてたら、その後どうなってただろう。そういう分岐点って、この病気に関わっていく中でいくつかあるような気がします。

 

結局、母は父(と僕ら)の予定通りに、年末に退院してきて自宅療養を続けることとなりました。

母の発病と最初の入院

昭和61年の11月下旬だったと思います。僕は小学生でした。当時うちの家は、父、母、祖父、兄、僕の5人で暮らしていました。

いつもどおりに起床して階段を下りていくと、階段の下で泣いている母がいました。その横に困った様子の父がいて。

母は「おじいさんをもっと大事にせんといかん」みたいなことを、泣きながら何度も何度も繰り返していました。母を動かそうとしても動きません。それを見た僕は(じゃあもっと普段から大事にしたらいいやんか!)と腹が立ったことを覚えています。

というのは、祖父は今でいう認知症で「ごはん食べたかね?」のように典型的な、同じことを何度も繰り返し問うことが日常で、この頃に農業との兼業主婦であった母は忙しくて、いつも祖父を怒鳴っていました。仕事から帰宅した父はその様子を目にすると母を叱り、母と喧嘩になるというのが我が家の日常でした。

今なら祖父は要介護認定されてデイケアにでも通うんでしょうけど、当時は介護保険制度もなく、福祉サービスもごく限られたものしかなかったと思います。女性が家事と介護を担っていた時代の、典型的なケースだったと思います。

父がどうして祖父を叱らず母を叱っていたのか、母が毎日どれだけしんどかったか、当時の僕にはわかりませんでした。ただ祖父が認知症であることは子供ながらに理解していたので(怒ったところでお母さんが疲れるだけやのに、おじいさんも家族やのにどうして優しく言えんのやろ?)と、日頃から母のことが嫌いでした。

でもとにかくこの状態の母を何とかしなければならないということで、近所の親戚も家に来て、母を病院に連れていく話になったのを見て僕は学校に行きました。(おじいさんを普段から大事にしてないからバチが当たったんや)みたいなことを思っていました。

帰宅すると父も母もまだ帰宅しておらず、暗くなった頃に父だけが帰宅しました。「お母さん、入院になったわ」と言われ「何の病気?」と聞くと「分裂病」と返ってきました。今でいう統合失調症は当時、精神分裂病という病名でした。

とにかく家事を何とかしないといけないということで、父が炊事ほか全般を担当し、兄が洗濯を担当、僕は風呂を沸かすことと、祖父の相手をする担当ということになりました。早速その日の夕食を父が作ったのですが、味がしなかったことと、深夜にトイレに起きた時、真っ暗な中で、父がひとり食卓に座って泣いている姿を見て(うちこれからどうなるんやろ)と思ったことを覚えています。

 

・・・ここまで書いて、我ながらまあよく覚えてるもんだと思いました。

ここがすべての始まりなんですが、たぶんずっと、誰かに聞いてもらいたかったんだと思います。

読んでくれた皆さん、ありがとうございます。