親父100まで生きるってよ

書くことで 自分の心も 保ちたい

「病気だからよ」

母は2度目の退院後、自宅療養の毎日を過ごすことになりました。おかげさまで再発することもなく現在まで服薬と通院で過ごせております。

退院後の母の暮らしとしては、当時うちは兼業農家でしたので、母は畑で作った作物を収穫したり、父と一緒に作業をするといった役割を担当していました。朝家事を済ませて畑に行って作業をするといった日々でした。

今から考えると、これがすごく母にとっては良かったんじゃないかなと思います。農作業は人との関わりも少なく、ただ黙々と作業をするといったことが多いので、人間関係が苦手な母としては日々のストレスも少なかったのではないかと想像しています。

また母の退院後しばらくして、祖父が施設に入所するということにもなりました。これも母にしてみればストレスの低減になり、家でも過ごしやすかったのではないかと思います。そんな日々が数年続き、我が家に平和な時間が訪れていたと言える時期だと思います。

それもこれも、今にして思えば、という話ですが。

僕は中学生になり、いわゆる反抗期を迎えていました。

祖父が施設に入所したことについて、入所した施設は遠くて車で行かないと会えないような場所にありました。父は仕事で忙しいので、おそらく祖父の施設に行くことはもうないことはわかっていました。僕は祖父が好きだったのと、自分の家で起こったことは自分たちでどうにかしなきゃいけないと思っているところがあったので、祖父の件はようするに厄介払いをしただけだろうと、それを決めた両親に腹を立てていました。

また、そのおかげで母は落ち着いて日々過ごせているのであれば、母はまた外に出て働けるように頑張るべきだと思っていました。それができて初めて治ったと言えるだろうと。おじいさんを施設に入れた意味があったと言えるだろうとか思っていました。

父は怒ると怖いので母にしか言えませんでしたが、なぜそうしないんだと言う僕の問いに対する母の答えはいつも同じで、

「病気だからよ」

の、ひとことでした。

病気だからおじいさんを施設に入れたのか。病気だから外に働きに行かないのか。病気だから自分の生活を改善しようと動かないのか。病気だから何も考えられないのか。病気だから何もしなくていいのか。

何もかも病気のせいなのかと。

じゃあ、俺が学校で喧嘩するのも病気のせいか。だって俺はキ○ガイの子やもんな。気に入らんことがあったら人に噛みついたってしょうがないよな。

それとこれとは話が違うと今ならわかるんですが、当時はこんな、いじけた思考回路しか持ってなかったですね。数年後、商品作物を作る農業を辞めて専業主婦状態になってからの母に「どうして外に出て働こうとしないのか」とか何度も言ってみたんですけど、返ってくる言葉はいつもこの言葉で。

 

たぶん、僕と同じような経験をしたことがある人であれば想像できるかもと思いますけど、何かこう、親が病気であることで自分の将来の可能性が少なくなりそうな気がする怖さというか、そういうものと、自分にはどうすることもできない歯痒さみたいなものとが、ごっちゃになった気持ちというか。そして、それを言葉にすることもできないんですよね。話すことで相手(親)を困らせてしまうような気がするし、反応も怖いし。

それに自分はまだ子供だから「これが正しい!」って言えるものもなかったですしね。だから結局表面上は親の言う通りに過ごしてしまう、でもどこか不満を抱えている、でも病気の話は何か言いにくい、という状態で日々を過ごしていくところがあるんじゃないかなあ、とは思います。実際僕もこの病気について、元気だった頃の父と正面から話したことはありませんし。

ただひとつだけ「病気だからよ」というのは、おそらく他人からは理解されないだろうな、という気持ちだけは、この頃からずっと持つようになりました。