親父100まで生きるってよ

書くことで 自分の心も 保ちたい

母の発病と最初の入院

昭和61年の11月下旬だったと思います。僕は小学生でした。当時うちの家は、父、母、祖父、兄、僕の5人で暮らしていました。

いつもどおりに起床して階段を下りていくと、階段の下で泣いている母がいました。その横に困った様子の父がいて。

母は「おじいさんをもっと大事にせんといかん」みたいなことを、泣きながら何度も何度も繰り返していました。母を動かそうとしても動きません。それを見た僕は(じゃあもっと普段から大事にしたらいいやんか!)と腹が立ったことを覚えています。

というのは、祖父は今でいう認知症で「ごはん食べたかね?」のように典型的な、同じことを何度も繰り返し問うことが日常で、この頃に農業との兼業主婦であった母は忙しくて、いつも祖父を怒鳴っていました。仕事から帰宅した父はその様子を目にすると母を叱り、母と喧嘩になるというのが我が家の日常でした。

今なら祖父は要介護認定されてデイケアにでも通うんでしょうけど、当時は介護保険制度もなく、福祉サービスもごく限られたものしかなかったと思います。女性が家事と介護を担っていた時代の、典型的なケースだったと思います。

父がどうして祖父を叱らず母を叱っていたのか、母が毎日どれだけしんどかったか、当時の僕にはわかりませんでした。ただ祖父が認知症であることは子供ながらに理解していたので(怒ったところでお母さんが疲れるだけやのに、おじいさんも家族やのにどうして優しく言えんのやろ?)と、日頃から母のことが嫌いでした。

でもとにかくこの状態の母を何とかしなければならないということで、近所の親戚も家に来て、母を病院に連れていく話になったのを見て僕は学校に行きました。(おじいさんを普段から大事にしてないからバチが当たったんや)みたいなことを思っていました。

帰宅すると父も母もまだ帰宅しておらず、暗くなった頃に父だけが帰宅しました。「お母さん、入院になったわ」と言われ「何の病気?」と聞くと「分裂病」と返ってきました。今でいう統合失調症は当時、精神分裂病という病名でした。

とにかく家事を何とかしないといけないということで、父が炊事ほか全般を担当し、兄が洗濯を担当、僕は風呂を沸かすことと、祖父の相手をする担当ということになりました。早速その日の夕食を父が作ったのですが、味がしなかったことと、深夜にトイレに起きた時、真っ暗な中で、父がひとり食卓に座って泣いている姿を見て(うちこれからどうなるんやろ)と思ったことを覚えています。

 

・・・ここまで書いて、我ながらまあよく覚えてるもんだと思いました。

ここがすべての始まりなんですが、たぶんずっと、誰かに聞いてもらいたかったんだと思います。

読んでくれた皆さん、ありがとうございます。